古典世界から見る現代ドラマ

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(角川ソフィア文庫。訳注の諏訪春雄氏は近松研究の第一人者として数々の業績がある。笠間書院の『近松世話浄瑠璃の研究』(1974)はレジェンド的な名著。拙大学時代、大学院時代に何度読み直したことか。)

 日ごろ、古典を読み、研究の真似事をしていると、現代の文学的営為というか、ドラマや映画作りなどに対して幾つか注文をつけたいことが出てきます。たとえばドラマで言えば、現代のドラマは探偵ものや医療ものが増えていることが示すように、リアルな描写(捜査や手術シーン)を志向するのが多いですね。決してそうしたシーンが嫌いじゃないのですが(むしろ好きですが)、これは古典の世界から見れば、近代のリアル病が蔓延しているように見えます。

 この、近代のリアル病の発生元は西欧近代の小説・演劇です。日本では、明治になって近代化が一挙に進んだ時(明治20年以後しばらく)、折悪しくと言いましょうか、大挙して流れ込んで来ました。ただ、西欧の近代小説や演劇いうのは、本来は実に多様なものでして、決してリアリズムで括れないのですが、ちょうど、明治20年辺りというのは、西欧近代ではリアリズム長編小説、近代演劇全盛期でエミール・ゾラやイプセンなどの、いわゆる自然主義的作品が盛んな時期で、それが日本の文壇や演劇界に大きな影響を与えました。(由良君美『メタフィクションと脱構築』1995等参照)

 ところが、少し考えれば分かるように、リアルなもの、現実の再現を第一とするならば、かつて坂口安吾が「FARCEに就て」(1932)で言いのけたように、地球に表紙を付けてしまえば、一番良いわけですね(笑)。すなわち、文芸や演劇はもっと多様なものを志向して良いわけです。ところが、このリアル病というのは、一旦これに感染してしまうと、それ以外がリアルに見えない、嘘っぽく見えてしまうんです。(安吾は嘘が人間には必要なこと、そのことこそが、最もリアルだと言ってますけどね)

 そもそも、文芸や演劇は嘘ですし、嘘で良い、いや、嘘が良いわけなのに、それが怪しいものに見えてしまう。これ実は相当にやっかいなことなのです。結局この病気のまま進みますと、ものの見方はどんどん袋小路に入り込んで、日本近代文学を例にすれば、極端に舞台の狭い、私小説やサナトリウム小説に行きついてしまう。むろん、それが一概に悪いわけではないのですけど、もっと広く多様なものが生まれて来なければなりません。

 ちなみに、昨今のテレビドラマに興味を持ちだしたのは、NHKの朝ドラ「ブギウギ」を見てからです。その感想については、このブログの4月2日の条にも書きましたが、ついに日本のドラマにもこうしたものが出てきたかと胸の高まりを覚えました。本筋の物語展開に加えて、ほぼ毎週、何等かのステージがあって、それ以外にも音楽的要素がどんどん入ってくる。ステージの演奏も本格的で聞き惚れるものです。またダンスやパフォーマンスも豊富、SKD(松竹歌劇団)の見事なラインダンスは、俳優さんも加わっての本格的なもので、厳しい練習の賜物でしたでしょう。また、伊原六花さんと小栗基裕さんのタップダンスもすごかった。そして言わずもがなのことですが、主演の趣里さんの歌と踊り・パフォーマンスは素晴らしかった。

 こうしたパフォーマンスがドラマの展開と一体化して、それを毎朝に無料で見せてもらえるのですから至福の時間でした。

 私の専門は古典小説ですが、もちろん、近松門左衛門を始めとする浄瑠璃・歌舞伎、能狂言、そして隣国朝鮮の時調唱や仮面劇にも関心があります。そうした古典の物語や演劇には音楽的・音曲的要素が多分に含まれていて、多様な展開があります。たとえば、このページの最初に上げた近松の「曽根崎心中」。私の大好きな作品ですが、好きになったのは、作品を読んだからではなく、国立劇場の文楽で鑑賞したからです。この作品には九平次に騙された主人公の徳兵衛が、茶屋の天満屋に忍び込んで遊女お初にかくまわれる場面があります(天満屋の段)。お初は、茶屋の縁の下に居る徳兵衛を自らの着物で隠しながら、茶屋に来て嘘八百を喋り散らす九平次に、堂々とその非を述べ、かつ徳兵衛への情愛を吐露しながら、二人で心中の誓いをします。

 その場面は、実に美しく感動的です。とくに、太夫の歌語りと三味線の音曲に乗って動く人形は、まるでミュージカルの舞台そのものです。そして、何にも増して心打たれるのはお初の気高さです。お初は、大阪の第一級の遊郭・新町の遊女でなく、場末の蜆川近くにある茶屋の遊女です。そのお初が、これみよと言わんばかに、徳兵衛への情愛を、二人の関係の涼やかさを、実に健気に、観客の前で歌い上げるのです。さらに言えば、このお初の気高さは、人間でなく人形であるからこそ、倍化して観客に伝わってくるように思います。私は、この場面の表現は、生身の人間には無理ではないかと思います。後に『曽根崎心中』が歌舞伎や映画になり、それを見ましたが、お初の気高さはすっかり影を潜めてしまったように感じました。つまり、人間じゃなくて、木が良いのです。木だからこそ、そこにお初の魂を感じるのです。(そういえば「ブギウギ」の最後に、スズ子が羽鳥善一に向かって、自分は羽鳥の人形で居たかったと言う場面がありますね。一脈通じる話かも知れません)

 NHKの朝ドラ「ブギウギ」の後は「虎に翼」でしたね。これも面白く素敵なドラマでした。現代の男女格差を意識した脚本作りで視聴者にも響いたのでしょう、「ブギウギ」より視聴率は高かったと聞いています(私も学生に法律の勉強にもなるから見なさい、とけしかけました)。
良いドラマであることは間違いありませんが、ただ、このドラマのテーマはドラマでなければ成し得ないものではないように思います。もちろん、ドラマという形で伝わるものもあったと思います。しかし、それはドラマや文学の本質的な部分とは違います。

 「ブギウギ」の中で福来スズ子の師匠(先輩)である大和礼子(蒼井優さん)がスズ子に、観客は現実を忘れるために舞台を見に来るのだから、その現実を思い起こさせたらダメ、と諭す場面がありましたね。これこそ、ドラマや文学の神髄です。ドラマや文学がフィクション(嘘)であることの理由がここにあるのです。

 とすれば、現代日本のドラマはもっともっと嘘の世界に遊んでいいですね。複雑な事件を解していゆく緻密な捜査や、現代科学に裏打ちされたAIによる高度な手術もイイのですが、人間の生老病死を忘れさせる、圧倒的な華やかさ、爆発的な狂喜乱舞が欲しい。ただし、安吾の言うように、その嘘や空想は、人間が生きて行く上でどうしようもなく必要なものなのだ、というところでギリギリに人間の現実と繋がっています。その繋がりが切れてしまったら、単なる馬鹿話に堕してしまいますね。そして、このギリギリを攻めるのがドラマの醍醐味です。

 このギリギリを攻めるには、役者の技量が必要です。僕の見るところ、趣里さんはその可能性を限りなく持っているように思います。ただし、その技量は脚本によって生きたり死んだりするものです。趣里さんは「生きているだけで愛」の寧子、「ほかげ」の居酒屋の女、ブラックペアンの猫田麻里など、「ブギウギ」のスズ子とは全く違った性格の人物を好演していますね。この振れ幅がすごく、今のところ、このギリギリを攻める、は上手く行っていると思います。

 ちなみに「虎に翼」の伊藤沙莉さん、「らんまん」の浜辺美波さんも素敵な俳優さんですが、趣里さんとはちょっと違いますね。伊藤さん浜辺さんは、あくまでも私の見た限りですが、どの役をやっても、その芯に伊藤さん浜辺さんらしさが垣間見えるように思います。ところが、趣里さんにはそれがない。「ほかげ」の塚本晋也監督が、趣里さんは憑依型の役者だとどこかで仰っていましたが、そうなのでしょう。軸がないというか、タガが外れている(笑)と言いますか。でも、FARCE(笑劇)や喜劇をやる場合、これが極めて重要なんです。

 FARCEはリアルの真逆です。ですから、趣里さんなら、趣里さんというリアルが残っていては出来ないのです。趣里さんは、役柄に徹する時に自らのリアルを消せる役者のように思います。ま、悪魔のような役者ですね。(ブラックペアン2で、猫田麻里が、天城先生にいい医者になれますよと言われて、そんなの興味ありません。悪魔のような医者になります、と答えましたが、あれは趣里さんが、悪魔のような役者になると宣言したように私には思えました)

 ただ、残念なことに、日本にはこのFARCEの文化があまりないのです。「ブギウギ」のような爆発的なパワーを持った作品に、また趣里さんが出会えれば良いのですが。。。「ブギウギ」に出演していた草彅剛さん(羽鳥善一役)が、趣里さんは「ブギウギ」を演じるために生まれてきた、みたいなことを言ってらしたのですが、ひょっとして草薙さんは、そうした日本の状況をよく分かってらしたかも知れませんね。

 ただ、今は少なくとも、今後にそうしたものが生まれてくる可能性はありますから、大いに期待したいところです。

 個人的には、趣里さんには、出雲の阿国を演じて欲しいなぁなんて思っています。戦国時代のいくさで疲れ果てた民衆を、踊りと歌と演劇で、片っ端から元気にしていった阿国。スズ子を演じた趣里さんにピッタリだと思います。それに京都の東山にある阿国像、あれを見ると、趣里さんそのものじゃないかと思うのは、僕だけでしょうか。(以上)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%98%BF%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Okuni5841a.JPG






 













 


かの松尾芭蕉の弟子、向井去来の句に以下のものがあります。

岩鼻やここにも一人月の客 去来

良い句だと思いますが、この句について、師匠の芭蕉とのやり取りがすこぶる面白いのです。

去来は芭蕉に向かって、この句は「名月を愛でたく、山の中を散策していると、岩鼻に自分と同じように月を愛でている人を発見しまして、ここにも私と同じ風狂な御仁が居られるなぁ」と思い、句に仕立てたと言います。

それを聞いた芭蕉は、それでは面白くない。ここは、自分から岩鼻の客に「ここにも一人風狂な人間がいますよ」と自分から名乗り出る句にした方が良いと言います。それを聞いた去来は、芭蕉先生の解釈は、この句を十倍良くさせると感嘆して、「まことに作者、その心を知らざりけり」と結ぶことになります。

面白いのは、作品世界を理解する上で、作者よりも読者が上を行ってしまうことです。この場合、俳句(江戸時代は発句と呼びます)という短い作品形態だから、このようなことが起きると考えられなくもありませんが、もっと長い詩や物語、演劇(シナリオ)でも起こります。




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